社会の鎧
「神は死んだ」との言葉の通り、絶対的なものが科学技術の発展の中で薄れゆく中で、自分は何の為に生きているのかと目的を見失ってる状態。
まさに今の私の状態。
のことなのだが、この考えに触れて考えたことを書き残しておきたい。
社会の荒波に揉まれていると「社会の鎧」を否応なく身につける。
ビジネス知識、ロジカルシンキング、対人コミュニケーション。
社会人として生きていく上で、社会用の自分を構築していくのだ。
私自身もそうだし、たまに「社会に上手く適用してるなあ」と苦笑してしまう。
自分で言うのは気が引けるが、それなりに仕事はこなせる方だと思う。評価もいただいている。
ただ本当の自分は?と聞かれたら、仕事なんてめんどくさいし、ゲーム好きでダラダラして引きこもるのが好きな、ぐーたら人間だ。
周りにもいないだろうか。
仕事の時は活発で頭の回転も早く人柄も素晴らしくて、なんてかっこよくて素敵な人だろうと思う人。
でも飲みに行ったり、親しい友人関係になったり(あるいは付き合ったり)すると、「おや?意外と子供っぽいぞ」とか仕事とは全く違う一面が見えたりするのである。
他者から見える社会用の自分像と「本当の自分」は違うということはよくあることだ。
ただ、この「本当の自分」が社会で戦い続けていると、何なのかがよくわからない感覚になってくる。社会の鎧を脱ぐと中身がなく、すかすかなのだ。
まさにニヒリズム。
の状態なのである。
一般的にみたいな書き振りになっているが、これは私だけの感覚かもしれない。
プライベートも充実していて、仕事以外も生きがいがあり活力に満たされている、という人も当然たくさんいるだろう。
ただ、同じような人は少なからずいるのではないだろうか。
「本当の自分」を作り上げるもの。
人によっては宗教や哲学など、大きな軸があって、そこから自分の経験だったりが肉付けされている人もいるだろう。
でも宗教や哲学など、何か依るものがないとすると「本当の自分」を作り上げるのは、
嬉しい・楽しい・悲しい・辛い思い出。
そこから得た考え、思い。
周囲の言葉や刺激。
になるのではないだろうか。
ただ上の要素があったとしても、自分の中に取り込んで、思索を巡らせてといった時間があまり取れていないことが多い。
それは目まぐるしい日々の中で時間がないというのもそうだが、SNSで発信して満足したり、ゲームやYouTubeとか娯楽の時間を過ごすと、本来は自分にダイレクトに響くはずの事柄がいつの間にか薄れていくのだ。
この文章を書き起こしている今の私は、実は直近で辛いことがあり、センチメンタルな気持ちになっているためか「本当の自分」と向き合う時間を取ることが出来ている。
でも、もし元気が出てきてゲームや漫画やYouTubeが楽しいとか思い始めたら、この「本当の自分」と向き合う作業をやめて、ただのらりくらりと、すかすかな自分のままで居続けるのかもしれない。
そしていつの間にか取り返しのつかない年齢になっているのかもしれない。
そんなことが怖くて、今ここで「本当の自分」に向き合った事実を書き残そうと思った。
いつでも思い出せるきっかけを作るために。